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More model information福原城は那須氏の居城で、12世紀末の築城と考えられています。那須氏は室町時代には関東八屋形のひとつとして数えられるほどの名族で、一族や家臣の所領も合わせ現在の栃木県北東部を支配していました。那須氏が15世紀前半に上下に分立すると、福原城は上那須氏の居城となりました。その後16世紀前半に烏山城を居城とする下那須氏により上下那須が統一されると、一旦廃城となりました。那須氏は、天正18(1590)年の小田原攻めに参陣せず改易になり、後に許されますが、所領の大部分を失ってしましました。慶長5(1600)年の関ケ原の合戦に際しては東軍につき、上杉勢の南下に備えた功により加増を受けました。那須氏はその後も加増を受けていますが、この頃には福原城が居城となっていたと考えられます。その後天和元(1681)年に烏山に転封となったため、福原城は完全に廃城となりました。なお、那須氏は烏山城に移ってから6年後の貞享4(1687)年にお家騒動(烏山騒動)により改易となりましたが、後に旗本として再興し、宝永5(1708)年には交代寄合となって明治維新を迎えました。寄合時代は、福原の玄性寺近隣に陣屋を設けていたといわれています。城は大きく段丘上とその背後の丘陵上の二か所に築かれていて、前者が平時の居館、後者が戦時の詰城と考えられます。このうち、段丘上の城の規模は東西500m、南北350mですが、耕作や道路工事等により遺構のほとんどは煙滅しています。一方丘陵上にはよく遺構が残っていて、最高所にある本丸を中心に北と南に曲輪が配され、曲輪の間には堀や堀切が造られています。
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